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『軍師 官兵衛』 最終回「乱世ここに終わる」2014.12.21 Sunday
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慶長5年9月15日、関ヶ原で激突した東西両軍は、激しく戦いました。
しかし、西軍の石田・宇喜多・大谷勢が少数ながら奮戦して、勝敗は決しません。
焦りの色がでた家康は、長政に使番をだして小早川の寝返りを確認します。
長政の返答は、「いくさの最中に、そのようなことわからぬ。もし小早川が約束をたがえるなら、西軍ともども討ち果たすまで!」というもの。
これを聞いた家康は落ち着きをとりもどし、起死回生の策をとります。
それは、松尾山に大筒をうちこみ、威嚇すること。
これが功を奏し、驚いた小早川秀秋は西軍に攻めかかりました。
かくして一気に形勢は逆転し、三成は戦場を離脱します。
そのころ、如水は手勢をひきいて九州各地を転戦していました。
勝利をかさねた如水軍は、ついに島津氏などわずかの大名をのぞいて九州を征服。
本陣で上機嫌の如水でしたが、善助の持参した書状を見て顔色が変わります。
それは、中央の決戦が関ヶ原の一日で終わった知らせでした。
その後、東軍大勝利の立役者は息子の長政であったことも知ります。
家康は軍勢をひきいて大坂城に入り、秀頼と淀殿に拝謁。
三成や恵瓊をとらえ、謀反人として処刑すると告げました。
縄をうたれて並べられた三成のもとに、長政が現われます。
恵瓊に言葉をかけたあと、長政は三成に陣羽織を与えました。
三成の返答は「天下の決戦をしたゆえ悔いはない」というものでした。
長政は九州に帰還して、家康に激賞され、52万石を得たと如水に報告。
すると如水は、家康が感謝して長政の手をとったのはどちらか問います。
けげんな顔の長政が右手です、と答えると「そのとき、そなたの左手は何をしておった」と如水は質問しました。
有名な逸話ですが、あっさり終わりました。
その後、如水は上洛して、家康に会います。
家康は如水の九州における活動を見抜いており、すこしは皮肉も言います。
しかし、如水は逆に「どのような天下を作るおつもりか」と聞きました。
「天下は天下の天下。いくさのない泰平の世にする」との返答を家康から聞くと、うなずいてその場を去りました。
その後に、北政所にも会って、大坂のことを語ります。
そして九州に帰り、今度こそ隠居暮らしに入りました。
慶長8年に家康は征夷大将軍となり、ここに幕府を開きます。
それからしばらくのち、如水は病に倒れ、光や長政、善助らに囲まれてこれまでのことを追想したのち、生涯を終えました。
さらにその後、大坂冬の陣が起こり、豊臣家は浪人を集めて徳川軍と戦います。
そのなかには、長政と仲たがいして黒田家を飛び出した後藤又兵衛の姿も。
翌年の大坂夏の陣で、又兵衛は激闘ののち討死しました。
燃える大坂城を観ながら、家康は如水との約束どおり泰平の世にするとつぶやきました。
福岡城では、光が如水の幻影をみていました。
そして、「殿…。よく生き抜かれましたなぁ」と語りかけました。
こうして軍師 官兵衛の物語は終わりました。
最後はいささか走った感じですが、毛利氏との戦いや天下取りは中盤のヤマ場でした。
主演の岡田准一さんは良かったと思います。
できれば、あのヤマ場をもっと掘り下げてほしかったです。
これまで拙い感想記事を読んで下さった皆さん、TBやコメントでお世話になった皆さん、どうもありがとうございました。
またこのような記事を書くことがありましたら、その時もどうかよろしくお願いしまして、今年の大河ドラマ感想のしめとしたいと思います。
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『軍師 官兵衛』 第49回「如水最後の勝負」2014.12.07 Sunday
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慶長5年9月、如水は、豊後の大友義統と対決することになりました。
大友軍は、黒田勢など大したことはないと見下していますが、違う意見の者も。
その男、吉弘統幸は以前、黒田家の食客となったことのある人物でした。
合戦がはじまると、大友軍は崩れはじめ、如水は進撃を続けました。
石垣原で激突した大友軍のなかには、吉弘統幸もいて、九郎右衛門に挑戦します。
槍を合わせた両者は激しく戦いましたが、ついに統幸は九郎右衛門の前に倒れました。
大友軍は降伏し、その後も如水は勝利をかさねることに。
「如水恐るべし」との評判が広がり、九州の諸侯は動揺します。
そのころ、美濃の赤坂に布陣した家康は、吉川と小早川の寝返り工作に成功していた長政を大いに褒めたたえていました。
さらに、時間のかかる大垣城攻めはやらず、得意の野戦にもちこもうと計画します。
三成の居城である佐和山を攻めるという噂を流し、西軍をおびき出す作戦です。
このことは、すぐ西軍に伝わり、三成は愕然とします。
何より、秀頼も西軍の総大将たる毛利輝元も戦場には来ず、三成は焦っている矢先でした。
かくして9月15日の朝、関ヶ原に東西の両軍十数万が陣をかまえて対峙します。
西軍は10万あまりか、と見た家康のもとに、長政の家臣が現われます。
その家臣は毛屋主水といい、物見の報告を述べました。
それは、敵軍が3万くらいというもの。
家康が理由を聞きただすと、主水は山々に陣取る日和見勢は問題にならず、戦う覚悟の相手は石田、宇喜多、大谷、小西くらいのもので3万と見ました、と説明。
「さすがは黒田の家臣。褒美をとらす」と上機嫌になった家康は、手近な菓子を渡しました。
こうして関ヶ原では大合戦がはじまり、長政は先鋒で出撃。
「めざすは石田三成の首のみ。他の者は目もくれるな!」と叫びました。
後藤又兵衛をはじめとする家臣団は喚声でこたえ、西軍の陣にむけ突撃します。
おなじころ、九州の如水軍も新たな戦場に向かっていました。
いよいよ最後のクライマックスですね。
選挙のため1週間あいだがあくそうですが、ここはじっくり待ちたいです。
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『軍師 官兵衛』 第48回「天下動乱」2014.11.30 Sunday
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如水は、九州に覇をとなえるべく、兵を募集すると宣言しました。
農民や町人でも、志願したものは士分にとりたて、自前の軍団を構築する考えです。
いっぽう、三成は大坂城に入り、他の奉行と連名で「内府ちがいの条々」を発布。
家康の非を鳴らして、おもに西国の大名を結集することに。
同時に、家康にしたがって関東に下った諸将の妻子を、人質とする作戦にでました。
大坂の屋敷にいる光と栄姫は、この事態に緊張しますが、善助と太兵衛が策を講じました。
まず太兵衛が二人をわらに包んでかつぎ、出入りの商人の家に隠します。
翌日ふたりの引き渡しを要求してきた奉行衆の配下に、善助はのらりくらりと応じます。
そして遠くからふたりに変装した侍女たちの姿を見せ、一時的に猶予をえました。
その後、細川屋敷で人質を拒んだガラシャ夫人の自決と屋敷の炎上という大事件が発生。
この混乱に乗じ、善助と太兵衛もくわわって、4人は大坂を無事脱出できました。
豊前中津に戻った一行を、如水は笑顔で迎えます。
はじめて如水と対面した栄姫は、「噂に聞いた恐ろしい方とは違います」と正直な感想をのべ、みなを笑わせました。
これで安心した如水は、1万近く結集した兵を訓練して、いよいよ出撃準備に。
大坂の三成は、恵瓊と相談して、豊後の大名だった大友義統を呼びます。
そして以前の領地を約束し、義統に黒田如水討伐を命じました。
同時に、徳川方の伏見城を攻め、相手の切り崩しにかかります。
そのころ、上杉攻めで関東に駐留していた諸将にも、三成挙兵の報が入りました。
家康は、小山で軍議を開き、諸将に去就をまかせます。
これに先立ち、長政は福島正則を説得して、軍議で発言するよう根回しが出来ていました。
さらに、京で隠棲している北政所あらため高台院のもとを訪ねた小早川秀秋から、長政のもとに寝返りを示唆する書状がとどきました。
軍議を成功させ、小早川からの書状を得た長政は、おおいに自信を持ち西へ出撃します。
如水は、その長政をどうするかと善助に問われて、笑って答えました。
「わしは長政を信じておる」と。
如水の九州を平定し、東西両軍の勝った方と決戦する作戦が開始されたのでした。
ようやく天下分け目の関ヶ原決戦という舞台がととのったようです。
来週の如水と長政の戦いに、大きな見せ場を作ってほしいところ。
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『軍師 官兵衛』 第47回「如水謀る」2014.11.23 Sunday
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慶長4年、重陽の節句に大坂城で秀頼に謁見した家康は、すでに実権を掌握したようです。
西の丸にいた北政所は、如水の進言にしたがって京に隠棲し、そこを家康に譲りました。
如水は、この動きを見つめながら、自分の策を練ります。
慶長5年になると息子の長政は、いっそう家康に傾倒しており、徳川屋敷で歓待されます。
さらに、井伊直政は、長政に家康の養女となった栄姫をめとるよう暗示しました。
糸は身を引くかたちになり、6月には栄姫が長政の正室となりました。
如水は、長政と語り合い、家康を天下人に押し上げるという息子の言葉にうなずきました。
ただし、如水自身はおのれの行動を策しており、三成の佐和山城に立ち寄ります。
そこで如水は、三成の構想している上杉と呼応する作戦を予想してみせました。
その後、広島城に毛利輝元をたずね、安国寺恵瓊とも会います。
恵瓊は、秀吉の天下を予言した過去を回想し、今度も勝つと宣言しました。
しかし、如水は毛利が恵瓊と吉川広家との対立や、輝元の迷いで分裂していると観測。
そんな情勢を考慮しながら、如水は豊前中津に帰りました。
それからしばらくして、家康が上杉景勝の謀反を糾弾し、会津に出兵すると決断。
この知らせは中津城にもとどき、如水はニヤリと笑いました。
いよいよ関ヶ原前夜の駆け引きも頂点にきました。
来週から長政は関ヶ原決戦、如水は九州平定戦に入ります。
クライマックスの展開を堪能したいところです。
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『軍師 官兵衛』 第46回「家康動く」2014.11.16 Sunday
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太閤秀吉の最期により、朝鮮半島から遠征軍が引き上げてきました。
そのなかには疲弊した長政の姿も。
如水はその労をねぎらいますが、長政は博多に三成が迎えにきていたことを不快に感じており、これまでの憤懣をもらします。
同じような不満は加藤清正や福島正則など太閤子飼いの武将たちも共有しており、天下の情勢はきな臭いものとなってきました。
太閤の遺言により、7つになった秀頼は大坂城に入りました。
これを五大老のひとり前田利家が養育し、やはり大老の徳川家康は伏見城で政務をとることに。
また、秀頼とともに大坂城に入った淀殿は本丸に居を定め、未亡人となった北政所は西の丸にうつりました。
このころ、朝鮮撤退に関して清正や正則が勝手に陣地周辺を焼いて引いたことを、三成や小西行長らが訴えるという事件が持ち上がり、長政たちは怒り心頭に。
家康は長政や正則、清正の心をたくみにとる同情的な言葉で、彼ら豊臣家の武将たちを自分の陣営に取り込んでいきます。
さらに天下取りの方策をすすめる家康は、伊達、蜂須賀や福島などの大名と政略結婚をおし進め、三成ら大坂の奉行衆を挑発にかかりました。
三成は奉行だけでなく他の大老を前田利家のもとに結集し、伏見の徳川屋敷に詰問の使者を派遣して、その動きを糾弾します。
これに対して初めは法度の違反行為となる政略結婚を、媒酌人の手違いなどと言い訳していた家康ですが、このままなら大老職を罷免する、との申し入れに対し、「大老は亡き太閤殿下の任命によるもの。それを辞めさせるなど、それこそご遺言にそむく」と反発。
こうして大坂と伏見には一触即発の空気が満ちていきました。
ここで如水が動きます。
まず前田利家に会い、天下を乱さぬよう、ここは徳川と和解されよ、と進言。
その策にしたがった利家の申し入れで、ひとまず合戦の危機は去りました。
しかし、家康は野心を捨てたわけではなく、新たな策を練ります。
そのひとつは、黒田家を引きつけておくこと。
そのため、可愛い姪っ子の栄姫を、自分の養女とすることに決めました。
これは姫を長政に嫁がせて、おのれの確実な味方とする手はずでしょう。
その長政は、糸が生んだ菊姫を喜んで可愛がりますが、糸は笑顔を見せず、それどころか10年かかって男子を生めず、熊之助の出奔を止めることもできなかった、と自分を責める言動をして、長政を当惑させるばかり。
慶長4年3月、前田利家が病で亡くなると、もう清正や正則は誰に遠慮もせず三成を討つと叫んで決起します。
長政は血気にはやって清正の屋敷に駆けつけようとしますが、その行動をあやぶんだ如水は、後藤又兵衛に軽挙をいさめよ、と命じました。
豊臣子飼いの七武将に追われた三成は、窮余の一策として家康の屋敷に逃げ込みます。
天下取りの合戦相手となる自分を、家康が殺すわけがない、と読んでの行動でした。
この思惑は図に当たり、家康は長政や正則、清正らの強硬な申し入れをしりぞけ、三成を無事に領地の佐和山へ帰しました。
ただし、争いの原因となった責めを負わせ、三成を奉行から解任し、隠居の身とします。
如水には、家康が三成の命を助けたことが、その仲間となる大名を集め、兵をあげさせるための手段であることが見えていました。
北政所から「豊臣の天下は秀吉一代のもの。次はそれにふさわしい方がとるでしょう」と、意味ありげに如水の顔を見た記憶が、老いた軍師の脳裏によみがえります。
如水は不敵な笑みをもらし、善助や太兵衛、九郎右衛門に告げます。
徳川にも三成にもつかず、わが道を行く、と。
ついに戦国最後の幕があがったのでした。
いよいよ関ヶ原にむかう駆け引きが本格化して、面白くなってきました。
来週は如水が自分の策をうちだすのでしょうか。
まずは三者三様の動きに注目して、クライマックスへの伏線を楽しみたいです。
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『軍師 官兵衛』 第45回「太閤の最期」2014.11.09 Sunday
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醍醐の花見を「わしの最後の豪遊じゃ」と、力なく語る秀吉。
家康は「なにをおっしゃいます」と励まし、秀頼の天下をたのむ、と懇願する秀吉には、篤実そうな笑顔でうなずきました。
黒田家には、熊之助が海で遭難したらしいとの知らせがとどき、光や糸は愕然。
朝鮮で名槍「日本号」を振り回して得意満面の太兵衛にも、ともに遭難した息子の吉太夫に関する知らせが。太兵衛は、如水の前に頭をつき、息子のことを土下座してわびます。
そのころ、太閤の病状は悪化の一途をたどっており、如水は本国へ召還されました。
そして、伏見城で秀吉と最後の対面をはたします。
病み衰えた秀吉には、もはやかつての面影はなく、小さい声で「わしは、天下人として間違っておったと思うか」などと問いかけます。
如水のお答は「殿下は信長公にこだわりすぎました」というものでした。
秀吉に「長い間、軍師としてお使いいただき、ありがとうございました」と礼を述べたうえで悄然とした姿で去っていく如水。その背中に、秀吉は痩せ衰えた手を上げ、「官兵衛、さらばじゃ」と声をかけたのでした。
これが今生の別れと察した如水は、回廊で泣き崩れました。
おねに見守られ、若き日を追憶した秀吉は、「露と落ち露と消えにしわが身かな 難波のことも夢のまた夢」という高名な時世の句をよんで肩を落としました。
慶長3年8月18日、尾張の農民から出世街道を駆け上がり、太閤にまでなった豊臣秀吉は世を去りました。
この知らせを聞いた徳川家康は、細めていた右目を開き、「勝負に出るぞ!」と宣言。
井伊直政・本多忠勝・榊原康政の三人衆は、歓声で応じました。
さすがに今回は、竹中直人さんの秀吉最期の場面を演じる気迫が見せました。
天下はふたたび乱れる、と予感する如水。いよいよ関ヶ原への第1歩となりそうです。
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『軍師 官兵衛』 第44回「落ちゆく巨星」2014.11.02 Sunday
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しだいに過酷な措置をとるようになった秀吉を、誰も止められません。
秀次を高野山に蟄居させて、一度は満足した秀吉ですが、淀に不満顔で「お拾いの将来が」と言われれば、もう気が変わります。
結局、秀次は切腹を強要され、しかもその妻子や側室は、幼い子まですべてが三条河原で大量処刑されてしまったのでした。
善助から驚くべき報告を聞いた如水は、「わしが止められなかったからだ」と暗い表情で、半兵衛に託された軍配をながめました。
その後、如水はふたたび秀吉に仕える決意を述べ、喜んだ秀吉は、長政と別に播磨ですこしの禄高をあたえ、軍師として再度召し抱えました。
最後まで秀吉を見守る決意の如水は、明との交渉が決裂し、またも朝鮮に出兵することになったため、渡海して任務につくことに。
これを、熊之助が不満なようすで、「自分も元服して戦場に行きたい」と発言します。
如水や長政は、まだ早い、この戦場は困難すぎる、と言って止めますが……。
思いつめた熊之助は、光に置手紙して、軍船に乗り込んだのでした。
今回は、秀吉の老いた哀れさや、かつての宿敵であった小早川隆景の最期が印象的でした。
それと平行して、いよいよ徳川家康が天下取りに乗り出すようです。
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『軍師 官兵衛』 第43回「如水誕生」2014.10.26 Sunday
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官兵衛を幽閉した秀吉は、そのことなど忘れたかのように、家康と肥前名護屋での仮装園遊会を話題にして大笑い。
黒田家中も、不安ななか策もなく、沈痛な表情のままです。
文禄二年、お拾い君こと、のちの秀頼が生まれました。
秀吉は、新たな世継ぎに会う前に、官兵衛の処遇を決めることに。
その官兵衛は、剃髪して如水円清と名をあらためました。
秀吉は、その姿を見ても厳しい表情を変えず、如水の号も嘲笑します。
しかし、あえて命乞いをした官兵衛に、「二度と命にそむくな」と申し渡しました。
如水は、礼を述べてから静かにその場を去ります。
8月15日、秀吉は多くの将兵を朝鮮の戦場に残したまま、大坂に帰りました。
現在は関白の地位にある秀次は、お拾いの誕生で不安になっていました。
そこで官兵衛に相談し、その知恵を借りて秀吉に書状を送ります。
それには、将来に秀次の娘を、お拾いに嫁がせる提案が書かれていました。
そんな不安定な天下情勢のなか、伏見の徳川屋敷では、黒田長政や福島正則が招かれ、酒の席で朝鮮の戦陣における苦労や、石田三成の処置に対する不満を語りあいました。
家康は、彼らの主張を聞いて鷹揚にうなずき、たくみに大名たちの心をとります。
こうして豊臣家の跡継ぎ問題に揺れる政治情勢は、 その水面下での動きをふくんで、しだいに険悪なものになっていきます。
そして、隠居暮らしを楽しんでいた如水に、驚くべき情報が。
それは、関白秀次に謀反の噂がある、というものでした。
もはや関ヶ原への伏線が動き出しました。
この時期に如水や長政が、どう関わっていくかが、今後の注目どころです。
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